「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?④

探しているものは、実は自分自身の本質であった。。。
これがYogaのゴールの最大のオチというか、
いやいや、探求のすべてである。
私の師ダヤナンダ先生はよくいうのだが、
「何が事実か解かる、っていうことは、世界最大のジョークを笑えるってことなのさ。」
そんな風にいって、ガハハハと笑う。
・うん、大変明るい。頼もしい。

全生物が皆、自然に欲していること。
自分自身が「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」であると知ること。
その理解において揺らがないこと
これがすべてだと、聖典はいう。
なぜなら、それが理解できたら、どんな世界で生きていても問題がないからだ。
緊張もなく、葛藤もない。
世界の根源が自分自身の本質だ、この事実を知る者を恐れさせ、脅かすものはこの世界にあるだろうか?
そんなものありはしない。
だってすべてが自分自身ということは明らかなのだから。
その人のヴィジョンには、自分と世界の間に恐れや違和感が介在する距離がない。
ただ1つの真実が自分を含めたすべてに広がり、満ちているという事実の確信が、
彼に敵をつくらない。
外にも内にもプレッシャーが無いその人は、常に寛いでいる。 しかも無条件に。
自分こそが安心と幸せと、自由の意味であることの事実に確立した人を束縛し、苦しませ、悩ませるものはないのだ。
いつでも、どこにいても、誰といても、どんな状況であっても。
そして聖典にいわせれば、
私たちが皆、すでに「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」ということはこの世界の唯一の事実なのだという。

聖典はいう。
あなたは、昔から「存在」であった。
たとえ肉体が現れていようと、なかろうと、絶対的な「存在」があった。
あなたは、「知・認識の源」であり、それゆえ考えというフレームに映る世界を認識することができた。
それはあなたの、“わかった!”という叫びや “なるほど!”という知の輝きが証明している。
事実からいえば、あなたは音を聞いているのではない。
聞くことは、音があなたという「知・認識の源」に起こっていることを、知ることだ。
見えるということは、景色があなたにに映っていることを、知ることなのだ
「存在であり知の源」はこの世界を埋め尽くしている。
あなたが指を指してみせるすべてが、「存在」である。
指をさし、指し示すあなたは「知」である。
それだけが事実として満ちている。
あなたが経験するすべては「存在であり知」である。
この瞬間、今も、そして未来も。
あなたが、「存在・知」であり、満ちているすべてだ。
そういうあなたの本質を「ブラフマンब्रह्मन्」と私は呼ぼう。
あなたが「ブラフマンब्रह्मन्」でなかったことなど、ないのだ。

これが事実だとすると、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である私たちに、問題を作って悩ませ
ている可能性はひとつだ。
それは、私がその事実を知らない。ということ。
私が、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である自分自身の本質を知らない、
ということになる。
「自分自身の本当の姿を知らない。」
「自分の事がよくわからない。」
これが私たちに問題と言えるようなものを作り出している。
本当の姿がわからず、本来の自分の上に、自分でない物を重ねて、それを自分自身だと思っている。
真実の自分の近くにあるモノや、事実に覆いかぶさり隠すものをみて、それらを誤認して判断する。
その虚像である“自分”に、限界をみている。
自分自身を小さい、頼りない、つまらない者
という見方で自分をみて、事実を知らずに勝手に結論をだして打ちひしがれる。
事実を知らないから、自分でないモノを、「これが自分だ」と断定することが、私たちの問題だ。
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具体的にどういうことが起こっているのだろう?
たとえば、家族や、家や車や、ペット、大事だと思い込んでいる近しいものが傷ついたり、それらを失くしたりすると私たちは非常に苦しむ。まるで、自分の一部が奪い取られて様に感じる。
しかし、不思議な事に他人の家族が同じ病気や事故にあったとしても、同じ家や同じ家が壊れても、自分のペットと同じ種類の動物がどうにかなったとしても、同じような痛みや苦しみは私たちの心には湧かない。
心の奥底からの苦しみはない。
そこには「自分と自分でないモノ」の距離があるからだ。
しかし、ひとたび自分の車とか、洋服とか、宝物がひどい目にあうと自分のことのように私たちは苦しむ。
それらは皆、初めは自分自身ではなかったのに、愛着が増すごとに自分の分身化していってしまう。
「自分でないモノと自分」の間の境が見えなくなる。
そういう境界が薄れたものが傷つくことは、まるで自分が傷つけられるようにイタイ事だと思ったりする。
同じことが、自分の肉体、感覚、精神と、そこに宿っている本来の自分自身の間に起こっている。
私たちは、何も持たずにある日この世界に現れた。
本来肉体すらもっていなかった。
ここにやってきた時に、肉体が与えられ、食べ物が与えられ、服が与えられ、名前や、おもちゃや、特徴や、文化や習慣や、関係や「役割」、、etcいろいろな物が与えられた。
それらはすべて本来の自分自身ではない。
自分に与えられた付属物、変わりゆく物でしかない。
「私自身」は、それらを上手く使いこなす存在である。「この私は」変わらない。
赤ちゃんのころから、今の今まで「この私」はいつも在った。
体が座布団サイズから、1.5メートルに成長しても、±10kgの激変があっても、中心の「私」はいつも変わらない。
小学生の時の写真と、成人式の写真をみて
自分のモノたちのあまりの“かわりっぷり”には驚くが、それらの中心にいた自分は変わらないであることを知っている。だから、その経験を楽しむことや懐かしむことができる。
しかし、わたしたちは中心にいる変わらない自分がいることには驚かない。
本来はそちらの方が、とてつもなく凄いことであるのに。
本質的な自分自身を知らず、しかもこれに無自覚で、それでも私たちは生きていける。
だけど、この基本的な自分への無知こそが様々な問題を作り出しているのだ。
何が事実か知らなければ、私たちは自然に “変わりゆくものや、他の対象物と比較できるもの”を自分自身だとしてしまう。
たとえば、この体や考えや、感情や、感覚など。持っている能力や資格や、技術や学歴や職歴が自分になってしまっている。
自分は“変わるもの”と思っていれば、どこかいつも空しく、頼りない。
だから私たちは、無意識に“確固とした何か”や絶対といわれる何かを、心のどこかで求めている。
自分は比較の対象となるもの、と思っていれば、いつも自分を他の対象物と比べ、過少に評価して自信をなくしたり、過大に評価して尊大になったりもする。
そして世界に限りなくある物の1つが自分自身だと思っていたら、自分はなんて世界でちっちゃい奴なんだろう?!と当然思う。
非力で、小さく、大きな世界の中で、今にもかき消えてしまいそうな儚い自分。
こんな自分に意味あるのか?
そう思ってしまっても仕方ない。
だから、当然そんな自分に意味付けをしようとして、ビッグに、フェーマスに、パワフルになりたいと誰もが思っている。
誰かにとって特別である自分。
自分にとって特別である自分。
世界の中で、自分は小さい奴なんかじゃない!という抵抗感が私たちを「何者かになろう」とさせる。
スペシャルでないと信じ込む小さい自分が、必死になって何かに成ろうとしている。
この欲求の原因は、一言でいえば「不安」だ。
不安な自分を自分で認められない。
だから、自分以外の誰かに認められないと、不安でいっぱいの私たち。
だれかに凄い!といってもらわないとダメなような気がする。
逆に誰かが評価されていると、自分はそれには及ばないのか?と思って、孤独になったり嫉妬してみたり。
嫉妬も、プライドも、だれと喜びを分かち合えない狭さも、みんな「不安」が原因だ。
そしてこの不安は、
私たちが自分自身の本当の姿を解っていない。という根本的な無知にがっちりと根をおろしている。

無知で不安で、世界に対して緊張がいっぱい。
そんな自分を、心から自分が認めることができない。
受け入れることができていない。
それが、自分の心の深くに疑惑や不信を生み、いうに言われぬ不満、フラストレーションをつくりだす。
その私が何かしようとして、心もとなく一人ぼっちで世界に立っている。
事実を誤解して歪めた自分の考えに、世界が映りこむ。
頼りない自分は世界に期待する。
しかし、期待の多くは裏切られる。
そして傷つき、世界に対して壁を作り、心を閉ざしてしまう。
“世界は自分を傷つける” 
その思いがある自分は、どこにも寛ぐことができないまま、
世界は自分の前に大きくはだかり、立ち向かうべきものになる。
だから、だれもが自分を守ろうとし、安全を求める。
すこしでもマシになれると信じて武器をもつ。
身を守る武器は刃物や銃である必要はない。
それは、お金という力かもしれないし、権力かもしれない。資格やポジションや、頼りになるパートナーかも。
しかし、何を持ったとしても、たぶん心から安心することはできない。
なぜなら、自分を守るそれらだってうつり変わり、儚いモノでしかないからだ。
しかも、ここが肝心だが、自分の中心ある無知に根を張る不安の根源が、安心できない限り、
何を持とうと、何をしようと、
不安や恐れには常に影のように自分をつけまわし、心の闇を見せるのだ。

聖典はこの根源の恐れにアプローチする。
「その恐れが無知なのならば、知識をもって私はあなたを恐れを越えさせよう」
という頼もしい教えなのだ。
曰く、
「いいか? あんたが存在しなかったことなどない。
それは確かだな?
そしてもっといえば、知の源でないこともないし、欠けていることなどぬぁい!
あなたは自分の凄さを知らなさすぎる。
自分の真実を歪めず、はっきり理解して、自分自身のままであればよいのだ。」

自分が、私には見えていない。
自分自身であるからこそ、最も近い存在でありながら、最も遠いところに理解がある。
永遠に私たちは自分の顔を直接見て確認することができないように。
一番近くて、一番遠くにある存在。
だから、「私」は自分の近くにある何かを、自分だと早とちりして結論付ける。
この体や、考えや、感覚や、動きや癖や習慣や声が、自分自身であるというように。
体の限界を、自分の限界にしている。
体のコンディションを、自分の状態にしてしまっている。
事実は、「高い身長を持つ自分」、これがいつしか、「自分は背が高い」、になる。
「太った体を持つ自分」、が、「私は太っている」になる。
「怒りっぽい質を持った私」が、「私は怒りっぽい」になる。
「病気を持った体をもつ私」が「私は病人」になる。
それ故、私=様々な問題の巣窟、みたいになってしまうのだ。
・・ぁぁ、そうかもしれん。
もし、そう思ったら、聖典のヴィジョンを理解できる心の準備が整っているといわれる。
なぜなら、私たちに特有の問題の質とそのメカニズムを理解しているから。
問題のありかが何処にあるかさえ解れば、
解決はそこにあるのみ。
ただしい処方箋をもってアプローチすればいい!
その特効薬が『ヴェーダ(聖典)』の最終章の教え『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の言葉である。
ならば、ここから
Here We Go!!
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続きはまた来週~
どんどん話が大きくなる。。
皆さんご無事?
私は、こんな話を毎日インドで聞いているのですよ。
さてさて、すっかり日本は秋めいてきてのでしょう。

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こちら南インドは異常気象なのかもしれん。
いつもなら雨季で、毎日雨に潤いを与えられるはずが、今年はカラカラ。
雨が少なくて心配ですな。
連日暑くて、大変です。
というわけで、今日は朝から雨乞いの祈りを東の空に向かっていたしたしだいです。
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「雨フレフレ」

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