<Yogaの目的とは?>

経典の意図を含めて「Yogaの目的」をいうとすれば、次の3つになる。
第一番の目的は、
“自分と向き合うことで、本当に求めていることを知ること。”
人生において探求すべきことを、サンスクリット語では、
『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』という。
Yogaでは、まず
揺らがない『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』を持つことが
Yogaを極める上で非常に大事な基盤だ、と強調する。
そのためには、自分と向き合って、心の深層を掘り下げていかなければならない。
まずは、『アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)』で肉体と向き合い、
『プラーナーヤーマप्राणायाम(呼吸法)』で呼吸、生理機能全般の動きを見ていく。
自分というものを、客観的にとらえられるように、順をおって練習をつむ。
体の準備ができたところで、集中・瞑想を通して、自分の内面をみる。
そして、自分の心の深層にある、“真に求めているもの”を汲み上げ、
“生きる目的”を確固たるものにする。
これらの目的達成のためのメソッドは、Yoga経典『ヨーガスートラ』の中で、
提示されている。
Yogaの2番目の目的は、
“求めていること
『プルシャアルタपुरुषार्थ(人が本当に求めるべきこと、生き方の優先順位)』がはっきり定まったら、
それを手に入れるための方法を知り、実行すること。”
その方法もYogaの経典に書かれている。
自分が今、していること。
自分が本当に求めていること。
この間にきちんとした繋がりがあるのか?
よく分析し、見ること。
もし繋がりがないようなら、より深く考えること。
もし違うのなら、軌道修正をすること。
目的と方法がはっきりしていれば、生きる道において迷うことはない。
そうYogaの経典はいう。
そして最終的には、
“この世界を動かすルールを知って生きながら、ルールに囚われずに生きること。
完全な自由を達成すること”
Yogaの終着点は、“自由になること”である。
問題や
苦悩、悲しみや葛藤。
私たちが、望んでいないことからの自由。
あらゆる束縛からの自由を目指す。
正確に経典のヴィジョンをいえば、
“すでに私たちの真実は自由。何の束縛もない。だから何の問題もない。”
という。
しかし、現に今、私には沢山の問題があるようにみえて、苦しんでいる。
そうだとしたら、その“私”とは何なのか?
それは、本当に“自分”なのか?
経典のいう“自分”と、今自分が“自分だ”と考えている自分は違うのか?
“では、自分とは?己とは何なのだ?”
今まで自分と思っていた存在は、何か思い違いや間違いがあったのか?
そこまで分析を深める。
自分の“在り方”を理解し、納得し、受け入れられるまで、“本当”を見極める。
見極めた本当の自分とは、今まで思いもつかなかった程、大きく広く、限りがない。
経典ははっきりという。
“あなたこそが、幸せと満ちていること、全体であるという「意味」である。”
壮大なヴィジョンから“自分”を意識する。
その大きな視点から“世界”をみる。
すると、小さな自分にしがみついていた、“問題や苦しみや悲しみ”が力を失う。
自分の真実を知った者を、外の物は脅かすことができなくなる。
ただ、ありのままを、知る。
真実を知ても、自分の体や世界は、そのままの姿で、自然の流れの中で営みを続ける。
だから、一見何も変わっていないように見える。
しかし、
“自分”を真実のヴィジョンで把握している人には、問題が問題でなくなる。
その人を掴んで、捕えていた苦悩が、無力になってしまう。
その人は、ただ自分自身で在る、
それだけで、幸せで満ちているのだ。
経典のいう苦悩からの“自由”。
それが、Yogaをして求めることである。
“自分を捕える事は何もない。
すでに、自分は自由である、と知ること。”
だからYogaでいう“自由”の意味とは、
物理の法則やエネルギーの法則から自由になって、宙に浮いたり、水の上をあるいたりすることではない。
超能力を身につける事は、本来のYogaの目的とは全く関係ないのである。
そこまで見極めるために、私たちは“自分”と“世界”について考えを深める必要がある。
私たちを縛るルールや勘違いからの“自由”を目指すには、まずその原因を知らなければならない。
高い実践力をもつヨーギーこそ、この世界、自然界に流れる秩序とルールを知っている。
そして、世界を動かしているルールと共に在りながら、うまく利用する方法を知っている。
天を味方につけ、“自由”という目的を達成する方法を、ヨーギーは身につけている。
方法を熟知して、生きる目的のために、法則を最大限活用する。
自分が本当に望むことを、間違いなく達成しているのだ。
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お寺での『プージャ(儀式)』の後には、捧げた供物の御下がりをいただきます。
これが、『プラサーダ(供物)』
供物は自分で食べる必要もあるのですが、
儀式の参加者にも一部配ります。
それがさらなる『プンニャपुण्य्(徳)』を積むというのです。
さっそく、わたくしも供物をお配りしに参ります。

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