さてさて
早いモノで前回のテーマ「ブラフマンब्रह्मन्」を書いてから3週間。
その間ぼーっとすごしていたわけではなく、あいかわらずインドの山奥でサンスクリット語や講義で忙しく過ごしていながらも、予告どおり瞑想について書いていたのです。
しかし、ちょうど「ブラフマンब्रह्मन्」について書き終わった辺りで、実はあたくしの内面に大きな変化が訪れてしまったのですよ。それは先週お伝えしたとおり。
そして自分でも俄かには信じがたい展開になっておりました。
というわけで、現在までブログが予定通りに進まず・・・大変申し訳ないであります。
で、
なにが変化かというと、“心を浄化する=客観的になる”というモチベーションが一気に炸裂してしまった。
実はYogaや瞑想をする前に然るべき準備として私たちは、“心を浄化する”必要があるのです。
これは個人の課題、宿題としてこなすべき地道な作業。
瞑想できる質、心の状態は自分の努力で準備する必要がある。
心が準備できたら、瞑想は自然に起こる。
「サマーディसमाधि(深い瞑想状態)」だろうが、『シャンティशन्ति(平和、静寂)』だろうが、深く自分自身の内に世界との一体感をみるような瞑想状態は勝手に起こる。
どうも我々の体や心はそういうシステムになっているらしい。
逆に、準備できてなければ、私たちは落ち着いて坐ることができない。
心に沢山の考えごとや悩みや鬱屈した思いがあり、それらがプレッシャーとなり、何かを探そうとしたり、どうにかしようと焦ったり、心に自分が弄ばれているうちは、瞑想はなかなか深まらない。
うん。
あたりまえだ。
こうして書いてみると、実にまっとう。
しかし、いざとなるとどうして、わからなくなってしまうわけですよねぇ。
心にどれ程の不安を抱え、恐れを持ち、プレッシャーで溢れんばかりになっているかということがもうわからない。それに対して正しい対処法が選べなくなってしまう。
理屈や理論はどれ程解っていても、実際毎日どういう態度で生きているのか?
隣の人と関わるとき、ご飯を食べる時、寝る時、仕事の人と関わる時、仕事に対する態度、生物に対する思い、自分の内側の感情、それらが私たちのYogaに対する態度を明かしてしまう。
どんなに理論で取り繕い、すました顔をしていても、世界に対する態度、自分に対する態度、放たれる言葉や行い、考え方が私たちのキャパシティーとYoga的生き方を証明してしまう。
Yogaの成果は毎日の、一瞬一瞬の生き方の連続の中にだけある。
私たちの思い、考え方の中にある。
Yogaマットの上の出来事なんて、どんなようにも恰好つけられるのだから。
Yogaは理論ではない。
それなのに、Yoga的態度を深める前に、苦しい状態や悩みを前にするとそれを打破しようとして、焦って瞑想やYogaのテクニック習得に走ったりする。
でも、テクニックなんて、所詮うわべだけの形。
技術やノウハウを手に入れるだけでは、内面の深まりや人間的成熟、ましてや真実の理解に至ることはできな
い。
瞑想だって、テクニックを得ればいいってわけではない。
どれだけ深められるか?
そのためにはどうすればいいのか?考えて、さらに実行しなければならない。
だけどそれがなかなか難しい。
だから、私たちは常に新しい、革命的で効果があるといわれるテクニックを手に入れることに夢中になってしまう。
まるでそれを手に入れさえすれば、落ち着きがあり、成熟した慈悲深い人間に自分になれるように思って次々に新しいスピリチュアルなアイディアを買い、瞑想やマントラやYogaのテクニックを求めてウロウロしてしまいがちだ。
が、テクニックや情報は私を成長させることはできない。
技術を得た安心感は、中身のない一時の気休めにしか過ぎない。
本当に自分に対して働いていないから、1つの新しい技術を知ったら、また次の何かを手に入れたがる。
それで、いつまでたっても納得も、満足もすることなく、Yogaノマド(放浪者)としてあっちこっちに動きまわるのだ。
ポイントは、1つのメソッドをどれだけ信頼し、どれ程真摯に深められるか?
それが私たちのためになり、Yoga的生き方を向上させる。それしかない。
例えば、瞑想だったら1つの瞑想というメソッドを試みるにあたって、そのための準備と理解が大事になる。
瞑想は心で行う活動であるのだから、瞑想のためには心を整え準備する必要がある。
そうして、テクニックが意味と成果を私たちにもたらすのだ。
フム、
だから、Yogaにも瞑想にも、焦りは禁物。
とくに、瞑想のために心を準備することは、Yoga的には“心の浄化”といわれているのです。
どんな浄化か?
といえば、心に積もる恐れ、怒り、憎しみ、自責の念や後悔の念を心から解き放つ、ということ。
いろんな意味で残念で無念な・・?思いばかりを抱える心では、瞑想なんてできません。
目を閉じて坐り、瞑想をしているフリはできるのですが、心の雑念たちが深いレベルで自分自身に触れることをブロックして瞑想が深まらないのです。
だから、瞑想の前にある程度の心の浄化作業は必須。
その浄化作業は、通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』といわれる。
『カルマकर्म(行い)』の態度を変えて、日常をYogaにすること。
日々の行いをYogaにしていくこと。
やるべき事から逃げずに、逆らわずに、淡々と行う。
内なるプレッシャーや感情の苦しみに押し出されるように行いをするのではなく、自分に向かって世界から差し出されたものを受け止め、自分の課題としてこなすこと。
計算せず、過剰な期待をのせず、やるべきことを客観的にとらて、忠実に実行する。
行いの結果は、世界から贈られたものとして、反抗せず、リアクションせず、有頂天にならず、
ただただ受け止める。
その態度で行いをすることが、『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』と呼ばれる1つのYogaの方法なのです。
『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』については、次回詳しくお伝えしますが、
とにかく行いをして、浄化を押し進めようとする力と思いが、私に一気に押し寄せてきてしまったのです。
ということは、今までYoga遊びをしていたにすぎなかったのかっ!?
・・・そうかもしれない。
上辺だけのYogaっぽさに参って、本当に自分を成長させようとは思っていなかったのかもしれない。
しかし、今回は、
「心の根から、変革を起こさねばこれから先は前に進めん!」
と内側からの高まりがムクムクとわいて、気がついたら自分の考えより先に、心と体が行動を起こしていたのでした。
と、とにかく、大きな変化に振り回されていました。
それは今も続いているのですが、ようやく自分のペースを取り戻してきたという感じに至っております。
一体何が起こったの?
とご不審の皆さまにお知らせいたしますと、何かガードが1つ開いた感じなのです。
急に心の中で、何かが始まってしまった・・
「さあ、これからはどんどんオープンに、開いていきますぜ。
もう何が奪われようと、何が無くなろうと関係ない。守るべきものなんてない。
大丈夫。与えてしまえっ。浄化、浄化!」
と心がわめき始めた。
自分ではそんなことを考えようとも、実行しようともしていなかっただけに、急激にでてきた思いに振りまわされっぱなしでした。尽き動かされるように体が動き、そのために生活のリズムを掴めなくなってました。
どちらかというと私は、毎日を自分のペースで淡々とこなして、周りに邪魔されないように自分のスタイルを持って地道にやっていくことが大事と考える方なのです。
だから、
「皆でシェアしよう~♪」
とか
「皆で頑張ろっ♡」
とかいうアイディアは、どうも偽善っぽい臭いがあって全く好きではなかった、はず。
それなのに!
まさにこんなような思いに動かされ、3週間前ほどから急に勉強グループをつくってみたり、ちょっと勉強の進みが遅れてしまった人のお手伝いをしたり、掃除や無償のサービスをしたり、自分の事をそっちのけで、どんどん時間と体を使ってしまっていたのでした。
後先顧みず、持てる時間を全部そういう行為に使い、全く自分の時間がとれない3週間でした。
充分に寝る時間や考える時間、休憩時間がなくなり、時に空腹やトイレを我慢しながらお手伝いをしていたりしました。
「ありあり?なんで、こんなことになってしまったのでありましょうな?」
と我ながら戸惑い、
「そんな実にならない、結果が出ない行いより、早く部屋に戻って、勉強しなさいよ。ブログ書いたり、たまった仕事をしておしまいなさい~」
という考えがぐるぐる廻っておりました。
それでも心と体が止まらずに、何だか気がついたら先生の住んでいる部屋の床のぞうきんがけをしていたり、同級生にサンスクリット語のフォロー講義をしていたりしていたのです。
うーむ。本当に、あれは完全に思いに振り回されていた。
しかし、それによって今まで気がつかなかった内面に気づきができたのも事実なのです。
実は、自分のことながらはっきり知らずにいたのですが、私の中にはず~~っと長い間仕舞いこんでいた得も言われぬ“恐れ”があったのです。
世界に対する恐れと不安。
とくに、“奪われること”に対する怯えと恐れ。
それは自分を頑固にガードしようという態度の原因でもあり、心に葛藤と違和感をもたらしていました。
かといって、この恐れはネガティブな面ばかりでなく、私の場合はこの恐れを振り切ろうとするために前に前に走り、今まで進んできた原動力にもなっていたのです。
この世のすべてのことにはネガティブな面とポジティブな面、どちらもありますが、とにかく“恐れ”はやっかいな代物には違いありません。
恐れがあるゆえに大変に苦しい状況に追い込まれていたりもしました。
自分を必定以上に蔑み、他人から守ろうと壁を築き、時に人を恐れ、ちょっと我ながら手に負えない憎しみと怒りに振り回されていたのも事実なのです。
そんな内なる怒りや憎しみを見て、受け入れ難い自分に抵抗し、狭い世界観に閉じこもって勝手に悩んだりする。
さらに悩む自分に対する自己嫌悪に苛まされる・・・そんなことを繰り返す。悩みのループにはいることも沢山あったのです。
う~ん、一言でいえば、無駄にもがき続けていたのですな。
はっきりいって、あがいてました。
あー、もう認めますよ。
自分勝手な妄想に囚われて、恐怖と不安に溺れていたわけです。
そんな風に小さく、心の狭い受け入れ難い自分を、世界から頑なに守ろうと殻を作ったりもしていました。
小さく無力であるがゆえに、
「何か自分で認められるような人間になりたい」という欲求も強くありました。
良く言えば向上心。しかしその実態は、どうにも歪んだ貪欲なハングリー精神。
満ちることを知らない自分は、周囲との調和を見ることなくイノシシのように前に驀進していた。
で、ついにその殻に3週間前辺りから亀裂が入ったようなのです。
なぜ?いまさら? 
その理由はわからないのですが、突然殻を打ち破り、脱ぎ捨てようとする思いが一気に押し寄せてきてしまった。
自分の惜しみなく分け与えることのできないキャパシティーのなさを、乗り越えていこうという強い思い。
「これを乗り越えなければ、“自分が全体世界である、「ブラフマンब्रह्मन्」である”なんていう聖典の教えを理解し、受け止めることなどムリムリ。
何から何を守っている?何のためにガードが必要なのだ?
世界に対して高い壁をつくって、自分の小さな世界や少しの持ち物を守ろうとして必死だが、一体それは何のため?
元々、世界には自分のものなんてない。この体すら、自然界のもの。
自分が世界に現れた時、体すら持っていなかった。お金も、洋服も、大事なものも何もなかった。
それなのに、今は沢山のものをまるで“自分の物”“自分だけの特別なモノ”なんて枠を作って、奪われることを恐れている。
その恐れが、奪う者に対する恐怖になり怒りになり、憎しみになり、自分より持っている者に対する嫉妬になり、複雑にねじ曲がった思いになっている。
小さな枠を超えない限り、自分勝手に築いた壁を突き崩さない限り、世界との繋がりは見えるはずがないさ。
塀に囲まれた小さい城の小さな王様は、大きな世界をみることなく、世界に開かれることなく、恐れたまま死んでいくだろう。
自分が本当は何者も知らずに。
幻のような恐れに怯え、いつも心落ち着かず、世界を攻撃し、責めてくる世界を憎んだままね。
そんな恐れをもって、“悟り”だなんて、「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」だなんて、
なにを調子のいいこといってるのか?」
そう思ったのです。突然。
「この壁を越えねば。自分は本当に自由の意味を解ることがないだろう。
世界の一部を、自分の物と限定するから比較が生まれる。
ここまでが自分と囲うから、心が狭く閉じてしまう。
閉じた心に、広い世界がありのままに映ることなんて、あるはずなんてないな」
そうして、私は自分のキャパを広げるべく隙をみては、自分に与えられるモノをどんどん人に明け渡すことばかりしていました。
どうにかしてこの狭さから脱け出したい。小ささを突き破って成長したい。
そのためには、今実行しなければ! 
それが自分をありのままを見るために必要なことだと、急にはっきりと確信してしまったのです。
まるでひよ子が卵をぶち破って外にでてくるように、
心の中で恐れを抱えてきた自分がそこから脱け出ていこうとしているのです。
期が熟し、卵がやっと孵化するように、自分の何かに変化を起こす力が急に出てきたのでした。
他人事のようですが、はっきりいってその力と変化に自分でもついて行けていなかったのです・・
そんな状態が続いた日々でした。
ようやく今カリメロのように卵の殻の半分を被りながら何をすべきかが見えてきたようなのですよ。
その間私がしていたのは、ひたすら“内なる恐れ”から逃げずに向き合うこと。
受け入れたくない、受け入れられない、自分のことながら納得ができない。
そういう感情や思いに対面し、立ち向かい、プロセスしようという勇気がでてきたのです。
この恐れに対するプロセスをダヤナンダ先生に相談したところ、
1つ言われた大事なことは、
「恐れは、歓迎してしまいなさ~い。」
ということ。
「もし自分が恐れを感じ、もしくは恐れから生まれる憎しみや嫉妬や怒りを感じたら、それはもうはっきり言葉にだしていうといい。
“私は恐れを歓迎しよう!恐れよ、来いCome On!。”
そういってしまえば、もうキミにとっては恐れが恐れで無くなるよ。
実際、恐れはキミになにもできやしないんだから。
まあ、少なくとも、“恐れに対して恐れない”ことはできる。
これはね、ちょっとしたコツだが、必ず言葉にだしていうんだよ。
そして、自分から出た言葉を聞くんだよ。
そうすればな、まあ大ジョブだっ!」
ちょっと前だったら適当にごまかしていたのですがね・・
今回は、もう一生かかってもいいから、この問題を根こそぎごっそりみなければならん、と思いましたよ。
根幹治療には、いい時だ。
そして、なんだったらここから大きく成長してみようと思いに至ったのです。
なぜなら、私は今まで同じ様なパターンの問題に追い込まれて、ハマリ、悩み、世界と自分を憎み、背を向けたり目を逸らしたりし続けてきたからです。
「もうそんなこと充分だ。
そんな小ささは、もうお終いだー!」
という切実な思いがわき、
今、根幹治療に及ばないかったら、多分一生同じパターンで人生を投げやりにしてしまうだろう、と思い、変化を拒まず、思い切って心と体がしたいようにさせてみることにしたのです。
さて、その結果は何処に繋がっていくのでしょう?
自分でもよく解りませんが、もう少し様子を見てみましょう。
何かまた変化が起こったら、それをオープンに、ライブでお伝えしていきますよ
といわけで、気になる変化はまた次回。
<続く~>
さて、内なる変化に戸惑う、ひよっこのあたくし。
一体どうプロセスしようとしたのでしょう?
心を浄化するためのYogaとはこれいかに?
浄化のために、現在私がしていること。
“己の計算なしに、ただやるべきことに従事する”
生きることがすべてYoga。
通称『カルマヨガकर्मयोग(行いのYoga)』について。
次回はその辺をお伝えできたらいいと思います。
そしてこれは瞑想をするために絶対に必要な準備。
瞑想できる心を準備する浄化のYoga。
向かうべきゴールは「ブラフマンब्रह्मन्」。
上手くまとまればいいのですがね・・・
とりあえず、今からボランティアに行ってきます。
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アシュラムから毎日見上げている山(丘?)
ああ、あんな風に堂々と大きくなりたい。
何にも揺れずに立っていられたら、どんなに素晴らしいだろう。
山のように揺るがないでっかい心を持つべく、人間的成長に向かってようやく歩き始めたわたくしですが、
毎日の細かいことをちゃんとこなしていくことしかないのですね。
Yogaには、近道もジャンプもありません。
でも焦ることはない。
一瞬一瞬の自分の態度を確かめながら、着実に積み上げていくのみ!
は~  やれやれ
というわけで、また来週~

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