「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?⑥

聖典はいう。
「あなたが悟ってなかったことなんてない。
今まで「自由」でなかったことや、「幸せ」でなかったことなどない。
ただ、あなたが自分の事実を知らなかった、ということはあったかもしれないがね。

あなたは、誰が何と言おうと、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」なのだよ。
「タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि(You are the Whole,あなたの本質とは全体である)
」 」
「もしかしたら、今までは、自由や幸せを満喫していた時の方が、特別だと、レアケースだと、
そう思っていただろう?
しかしな、本当はさんざん違和感を感じてきた苦痛とか悩みとか恐れ、満たされない思い、とかの方が
あなたの本当の姿とは違っているのだよ。
それを証拠に、実際には幸せであることより、苦悩の方に違和感を感じている。
だろう?
自分自身と何も違わないものに普通、違和感を感じるか?
嫌だと思ったり、涙を流したり、逃げ出したいと思うかい?
できれば、大喜びしていたい、いつも解り合っていたい、穏やかな心でいたい、な~んて思うのは、
“幸せ”ということがあなた自身の真実だからなのさ。」
・・・
そうなのだ。
私たちの真の問題は、問題ではない。
まるで、問題が起きているように見えるのだ。少なくとも、私たちにはそう見えている。

私の考えには、出来事が、“問題”に映る。
私の耳には、単なる音や声が、“ひどいいい方、悪口、批判、あんまりな情報”に聞こえている。
私の眼は、誰かの不機嫌な顔を、“怒ってる人、恐ろしい人”と映す。

そしてあなたの心は、それは“自分のせいかも?”という風に考える。
“どうしてあの人はああなんだろう?”と思う。変わってほしい、とも思う。
あなたの耳には、誰かの声が“批判”として聞こえている。“私が悪口を言われている”と、とらえている。
確かに不平や不満を声に出して言う人はいるが、それはその人がそう言わずにいられないというだけのこと。
自分の周りにいる人達は、それぞれに自分の中に個人的な問題を抱えて、プレッシャーを感じ、そんな風な顔を
せざるをえない。そう言わざるをえない。そう振る舞うことしかできない・・
でもそれは、彼ら自身の問題であなたには、全く関係ない。
・・・・?
「じゃあ、私が今ハマッテる大問題は、問題じゃないとでもいうわけですか??
こんなに苦しいのに、こんなに悩んでいるのに!髪が抜けるほど、いそがしいのに?!
それでも問題じゃないとでも?」
聖典にいわせれば、
「Yes,いえーす、外の出来事は、本来問題にはならない。
世界はあるべきこと、起こるべき事が秩序通りに起こっている。
あなたの希望や、思惑とは無関係に1つの法則によって運行されているからだ。
その出来事を“問題”にできるのが、あなただ!
世界の出来事が、“問題”となっているのは、あなたの見方がある、あなたの心の中。
あなたの考え方。物事のとらえ方。
だから、本当の問題とは、あなたなのだ。」
「・・・」
「だとしたら、問題の解決はあなたにしかない、っていうことだなっ」
「何故そんなことがいえるんです?」
「なぜか言おうか? 
あなたは忙しい、悩んでいるといって、今過酷な問題にドハマリしているかもしれない。
けれど、その問題を忘れている瞬間が、毎日の出来事であるだろう?
暖かいお風呂に肩までトップリつかった瞬間に、“このやろ~!“と思うかい?
悩みながらも、香り高いコーヒーを飲んだ瞬間にまで、 “ぅぅぅぅぅぅぅ・・・!”と呻くか?
夢も見ない程爆睡している瞬間、“ああっ!やばい!まずい!”と焦るか?
そんなことしないはずさ。
一瞬、心が抱えているすべての問題を手放している時がある。
その瞬間が何度か訪れる、ということをあなたは知っている。
もしかしたら、その瞬間があなたを狂気の沙汰から救っているのかもしれんがな。
“まとも”な人間として繋ぎとめることができている唯一のスペースが、すべてを忘れ、解放される瞬間なのかもしれない。
しかし、その瞬間があるということは?
すべてを忘れられることができる時間がある、ということは何を意味している?
あなたを“まとも”にさせる瞬間は、どんな時に起こっていた?
問題から引き戻し、落ち着かせている時はどんな時だった?」
「そ、そ、そ、それは、」
「覚えていないならわしが言おう。それはな、あなたの心が動いてない時だ。
出来事を問題にしていたのは誰だ?
ドハマリ、しているのはあんたの何だ?
体か?感覚か?消化や排泄の生理機能?それとも存在?」
「ち、違います。悩んでいても、トイレにいっているし。
苦しくても熱い、冷たいは感じている。」
「そうだな。それにあなたが、いなくなったこともない。存在は何もしない。
では? 問題を問題にしているのは?」
「んーー」
「“問題は、あなたの中心だ。中心になっている心。
つまり物事をとらえ、判断し、結論をだす部分にのみ問題があるわけだ。
だろ?」
「そうです・・・けど」
「えぇっっ?けど?この後に及んで 、けど?」
「い、いや・・そうだし、その通りなんだとは、思うんです。
・・けど、今まで自分とは、この心だと思っていました。
自分の存在と心が別物なんて、そんな「ヴェーダ(聖典)」のいうように急に割りきれませんよ。
だから、まだ私の中では、自分の事実は心、心の問題は自分。問題はすごいリアルなんですよ」
「ふむふむ・・ 
まあ、それはそうだろう。
問題は、自分自身の事実を知らないこと。
その無知の上に、混乱が起こっていること。
自分がもはや何者か解らずに、問題がゴタゴタになる。
しかも、さらに問題を大きくしているのは、自分を知らないでいた時間があまりに長くあったということ。
自分自身とは、心だと信じて疑わない事。
自分に起こる問題は、世界の誰かさんのせいにしていた。
本当は自分の心のとらえ方、思い方、見方にあるのに、そんなことは、これっぽっちも思わなかった。
問題の本質に気がつかないというオリエンテーションがあまりに完ぺきにされていた、ということだな。」
「どうすればいいんですか?」
「うん、
でも事実は事実。真実はどうしても真実。それは変わらない。
あなたが「ブラフマンब्रह्मन्」の意味する存在であり、自由であることは唯一変わらない事実だ。
「ブラフマンब्रह्मन्」であるあなたの本質は変えることはできない。
けれど、
あなたの見方は変えることができる。
あなたの考え方やとらえ方は変えることができる。
世界も、あなたの事実も、変えることはできない。それは不可能だ。
でも、事実を捻じ曲げている思い方や、ありのままを見る目を曇らせている主観は、いくらでも変えることができるのさ。
そこにはいってくるのが、Yogaだ。
 Yogaは可能性だ。出来事を問題とみる、あなたの見る目を変える術だ。
あなたの思い方をまっすぐにする方法なのだ。
まるで、鏡を磨くようにね。ありのままを映す心を作っていく。」
「・・・・」
「ハハハ、思わず無言になるのもよくわかるよ。
なにせ“心を正す”なんて、壮大なプロジェクトだからな。
それにな、事実がわかったからといって、急に事態は変わらない。
Yogaをして、あなたの見方を変えるのが唯一の解決だが、時間と努力はかかるのだな。
なにせ、生まれた時から、“被害者意識、悲劇のヒーロー”として考える習慣があるのだから。
でも、それはだれもが同じなのだよ。人間として生まれた者は皆同じ様に考えている。
古の聖者や「ヨーギーयोगी(Yogaの実践者、達人)」たちも例外ではないさ。
だから、長い時間、ときに一生かけて毎日の生き方、世界をとらえる自分の見方を一瞬一瞬正すようなYogaをし
て、己の変えることができる部分を変える努力を、彼らだってしていたのだ。
あせってはいけない。
それでも、確実な問題の根本解決に至る道が、伝統的なYogaの道であるのだから。」
・・・・
聖典に言わせれば、
私たちの本質は、皆「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である。
「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉は、この際使わなくてもいいかもしれない。
言葉は、意味を運ぶだけだ。
「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉が運ぶ意味は、簡単にいえば、
ただ自由。ただ幸せ。
限りない存在。満ちているということ。
自分自身である、それだけでいいこと。
「ブラフマンब्रह्मन्」を別のいい方をした、
「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」。
それら3つの言葉が運んでいる“意味”が、私たちの事実なのだ。
だから、この本質を理解していれば、
私は、「ブラフマンब्रह्मन्」でなくてもいいじゃない?
本当の意味がわかっていれば、自分自身の在り方を理解しているのなら、
「ブラフマンब्रह्मन्」になんかなる必要はない。

難しい言葉に囚われて、本当に知るべき事実を見失ってはいけない。
まさに、言葉に含まれている“意味”こそが、私たちの事実なのだから。
もう1つYogaにおいて、私たちを困惑させる言葉ある。
それが、“わたし”を指し示す言葉、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」。
「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」とは、“単に私の事実”という意味である。

******聖典的「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」の解釈********
「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」という言葉自体は4つの意味を含む。
① √आप् + मन्=すべてに行きわたる存在
② √आ + धा= すべてを維持し、すべてを1つに引き戻す者
③ √अद्   =あらゆる経験のベースとなる存在
④ √अत्   =常に、存在する者、時間と空間の束縛を受けることがないこと、自由の意味
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語源からみた「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」という言葉は
「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」と同じ意味を内包している。
この4つの意味が、私たちの本当の在り方、真実を示している。

私とは、すべてに行渡り、維持し、自ら輝く経験のベースであり、束縛なく常に在り続ける者。
聖典は
私たちの真実とは、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」だという。

「ブラフマンब्रह्मन्」同様に、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」も、特別な何かではない。
“私”という言葉が示す本質的な意味、それが「アートマーआत्म」なのである。
私たちは、「アートマーआत्म」と呼ばれる何かに成ろうとしたり、
「ブラフマンब्रह्मन्」と呼ばれるものに近づこうとする必要もない。
なぜなら、すでに私たちは、「なろう!」とする前から自由であり、幸せの意味であり、常に存在する真実なのだから。
「なろう!」としていた
「ブラフマンब्रह्मन्」や「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」はすでに、私たちの事実として、
今も、まさにここにあるのだから。
真実が、ただ「アートマーआत्म」と呼ばれたり、「ブラフマンब्रह्मन्」と呼ばれたりしているだけなのだ。
「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」=「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」
どちらの言葉も、“私の真実”を意味しているのである。
そして、この真実を自分の事としてみることができる、理解と心を養ってゆくのがYogaである。
私たちは、Yogaによって、自分の真実も、世界の事実も変えたりしない。
Yogaの試みは、問題の焦点である、“自分の見方、考え方を変えること”。
主観ではなく、客観的に物事をみる。
広く、大きく、ありのままを映せる心を磨き、毎日の中で積み重ねていく。
まずは、
「アーサナआसन(姿勢、Yogaのポーズ)」や「プラーナーヤーマप्राणायाम(呼吸法)」を通して、体や呼吸や生理機
能という、自分自身がいる場所と冷静に向き合う。
感覚や、感情、思いを、「ディヤーナンध्यानम्(瞑想)」によって意志の元に扱う。
本当の自分自身の姿と、この自分に付随し、扱うべき道具である心、感覚、体との境目をみていく。
何が自分の真実なのか?
自分と、自分のようにみえるけど自分自身ではないものの境界。
これをはっきりとさせ、問題の在りかを見極めるのだ。
その努力の1つ1つが、私たちを問題の核心に迫らせる。
それは、そのまま苦悩の根を根こそぎ取り除く術となる。
Yogaによって磨いた心で、知識の刃を無知の根に振り下ろす。
無知から芽生えたあらゆる苦痛の根が取り除かれた時、
私たちは「ブラフマンब्रह्मन्」、「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」という言葉が意味する
ありのままの“自由、幸せ、満ちている、存在”で在ることを心から喜び、
そこに在り続けることができるのだ。
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続きはまた来週~
「ブラフマンब्रह्मन्」のお話も、いよいよ終わりに近づいてまいりましたよ!
あともう少し。
難しい話が続きましたが、あとはもう 「へー」 っという感じで、リラックスして読んでくださいまし~。
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こちらが毎朝通っているお寺。
朝日があたって美しいですね。南インド特有の建て方で建てられたお寺だそうです。
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お寺のご神木 「アシュヴァッターの木」(『バガヴァッドギーター』の15章にも出てくる木。そして、ニームという歯磨き粉やアーユルヴェーダのお薬にもなる苦い葉っぱで有名な木が合わさった珍しい木です。
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「シヴァशिव」の象徴的な形「シヴァ・リンガム」
そして、「シヴァशिव」の乗り物である、牛のナンディー。

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