「ブラフマンब्रह्मन्」じゃなくても、いいじゃない?③

**『ヴェーダ(聖典)』は、私たちの本質は「幸せの意味、自由の意味」であるという。
その意味を表現している言葉が「ブラフマンब्रह्मन्」であると。
しかし、この世界には、いいことばかりはない。
苦悩だらけ、つらいことだらけ・・・かもしれない。
本当に私が幸せの源なのか?
『ヴェーダ(聖典)』のいうことをにわかには信じがたい。
そういう人達は昔からインドにも沢山いた。
そして、人間の真実は「苦」だという、学派も現れた。
「サーンキャसांख्य(2元論を主張する学派)」哲学といわれるのがこの代表選手。
人間の本質は苦、だからそれを認めてしまえば、楽になるだろう?という。
だって、世界と自分は常に別れて、幸せを味わっている一体感の中にいることの方が、
イレギュラーなことなのだから。。
というのが彼らの主張。
はたしてそれに対して、『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』を忠実に解釈し、
「人間の本質はただ1つの真実である、それが幸せの意味だ!それが「ブラフマンब्रह्मन्」だ。」
と教える賢者たちはどうこういった考えに対峙していったのか?
「私たちが今この瞬間も、ここで、「ブラフマンब्रह्मन्」じゃないなんて、だれがいいきれる?
あなたがいつだって探し続け、求め続けているのは、“幸せの意味であること”ではないのか?
 そうだっただろう?
それは、外のものでは手に入らない、どこかに行くことでも得ることができないということは解ったはずだ。
じゃあそれはどこにある?
どこでも、どんな時でも、私たちがそうでありたいと思っていること。
つまり「幸せであり、自由」であるということが、実在していて、私たちがそう確信することが可能であるのなら、
今ここでも、そうでなければおかしい。
だったら、その可能性は何処に在ると思う?
今、ここに、まさにいるあなた自身が初めから、探したり、得たり、出かけたりしなくてもそうである、
あなた自身であることだけが、「幸せであり、自由」でなければ、人間の探求はいつまでたっても終わることはない
と、そうは考えないのか?」
そんな風にいう。
さて、これからどうして私たち自身が「ブラフマンब्रह्मन्」であるのか?
探しているものは、探している者自体だった。。
という結論をだせるのか?
「ブラフマンब्रह्मन्」の解釈とともに見ていこう。
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もし誰かが言うように、「苦」が私たちの本来の姿だったら、
私たちがいま「幸せ」の瞬間を求めているように、私たちはいつも「苦」の追求へと明け暮れているはずだ。
自分の本来の姿でありたい、
この自然に湧いてくる真実への欲求が、その人を「苦」へと走らせるだろうから。
だが、そんなことはない。
私たちにとって、「苦」やっぱり「苦」なのだ。
あたりまえだが。
「苦」は嫌な物で、避けたいものだと誰もが思う。
なぜならそれは、自分の本質ではないから、
私たちは「苦」が自分の中にあることに違和感を覚えるのだ。
どんな些細なことでも私たちは自分の中に「苦」をみたら、とりのぞきたいと思う。
それがごく普通の、自然な欲求だ。
本来“自分でない”ものが自分の中に、存在していることに私たちは我慢ならない。
そういうものだ。
違和感をもちながら、リラックスすることなどできない。
例えば、
目の中にはいった埃は、どんなに小さくたって気持ち悪い。 。
胃の中にはいってきたピロリ菌は、目に見えないほど小さいけれど、本来ある自分のシステムにおいて異質であ
るから、気分が悪くなる。全身が異物に対してリアクションして病の症状を現す。
そんな風に、この肉体というレベルでも、本来の自分以外の物が侵入してくることに、私たちは耐えられない。
故に、「苦」を見たら、すぐにでも取り除きたい。
なぜならそれは、自分にとって“異質”なものだからだ。
当然だ。
そして本当の自分の姿である「幸せ」の意味にいつまでも留まりいたい、と思う。
幸せの瞬間の時にいつもいたい。いられたら、と思う。
私たちが深くいい眠りについている時。
私たちは自分の中に違和感をみていない。だから、その状態を心地よく思い、寛ぐことができる。
そこにいつまでも留まりたい、と願う。
それが、私たちが、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」を指し示す言葉の3つ目の意味
「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)」そのものである、といいきる根拠だ。
自分の中に違和感がないこと、異質なモノが無い時に経験できている絶対的な安心感や幸せ。
これは、外からつけたしたものではない。
元々ここにあったのだ。
自分の中に、自分を否定したり、拒絶したりする思いや、緊張や、不安という異物がなければ、
私たちは本来の“幸せ”である事実に留まることができる。
しかし、
私たちは混乱している。本来の自分が何者か,解らなくなっている。
そうして忙しく外へ出かけ、何か自分をマシに、マトモにしてくれそうなものを血眼になって捜している。
もはや戻るべき場所、帰るべき所がどこなのかも、忘れてしまっているのだ。

さて、
我を忘れるような経験から、私たちは自分の本来の姿に立ち戻ることを思い出す。
自分に違和感のないこと。
そのとき味わえる“幸せ”の意味。
私たちの経験に対して、聖典の結論は真実を証明する。
あなたとは、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である、
ということをいうのだ。
でも、

し、
「いやいや苦こそ、我が本性。我は苦なり。苦を求めるなり」
というオトボケさんがいたら、迷わずインド・ボンベイあたりの駅前スラムに裸で送り込んであげてほしい。
きっと、あらゆる「苦」ゆえの絶頂に達することができるはずだから。。。 

『ヴェーダ(聖典)』が述べる事実は、
私たちの本性は、「幸せ」の意味そのものである、ということである。
私たちは、普段ごく自然にいろいろな物、何かステキなものを求めているようにみえる。
その物が欲しいのか?
それとも、
そういう物を持っている“幸せな状態の自分”が欲しいのか?
どちらだろう?
私たちが欲しいのは、物ではない。特別な場所ではない。
それを得ることによって味わえる、一体感、安心感、寛ぎ、心地よさ、が欲しいのでは?
一言でまとめれば「幸せである」、そういう自分の在り方を求めているのだろう。
皆が忙しく何か物や状況を探しているようにみえる。
けれど、皆、その物の後ろにある「幸せである自分」だけを求めているのだ。
物や状況は、この自分を表に引き出してくる、切っ掛けにすぎない。
そういえるのは、「幸せ」の意味が私自身であること、に他ならないからだ。
自分が何かと一体感を得ている。
その時自分の本質が“喜びや幸せ”という感情や経験といった形をともなって姿を表す。
なぜ、物や場所はきっかけにすぎないか?
といえば、
ある物を目の前にして私たちが、いつも必ず同じ心境でいれるか?といったら、けしてそうではないからだ。
体のコンディションが崩れたときの、夢のように甘いフルーツは私たちを必ずしも喜ばせない。
世界最高のチョコレートも、10個程経験した辺りから、多分苦痛になる。
憧れの場所にいっても、耳に入ってくる悲しいニュースによって、私の喜びは冷めてしまう。
状況やモノは、あくまでも“自分の本質”を引き出してくれるきっかけにすぎず、“幸せ”をもたらすものではない。
“幸せ”という物がどこにも売ってないのは、それが絶対ではないからだ。
私たちは何かと一体感を得ていたり、我を忘れて何かに没頭していたり、理解したり、夢中になっている時、心から寛いでいる時に、幸せを体験している。
この幸せは、自分の本質である“幸せの意味”を否定されない時に可能なのだ。
「私は不幸だ、悲しい、小さい、醜い、無意味だ。。。」
だなんて、決めつけて言う自分の中の誰かががいない限り、私は単純に幸せなのだ。
集中しているとき、熟睡しているとき、夢中で何かをしているとき、この否定的な結論をだす何者かがいない。
自分を“小さく、無意味な私と決めつける中心がいなくなる時、
不満とプレッシャーでいっぱいな、事実を知らずに何かに怯える“無知な私”が力を失う。
否定し、騒ぎ立てる、自分の中の何かが静かになった時、
私は心から自分の本質を“幸せ”な経験として味わえる。
なぜなら、それこそが私たちの本当の姿だから。
そして、この主観的に自分を判断し、ネガティブな結論をだし、違和感を抱えている何者かは、
他ならない私の1つの考え方、物の見方、認識の仕方なのである。

私たちの探求とは、自分自身の真実である。
私たちが本当に探しているのは、自分自身の本質を知り、そこに在り続ける、ということなのである。
苦悩だ、つらい、不安だといってのける“私”は、
本質の私を覆い隠し、本来ののびのびした自分を制限する主観であり、勘違いだ。
それは己の事実を知らない、無知が根源となっている。
だから、「幸せ」でありたければ、この様な考え方をする自分の中心にいる無知が、理解し、納得する必要がある。
自分の真実とはが何か?ということを。
問題の中心にしか、解決はない。
自分の苦痛や恐れの違和感の原因は無知にあるのなら、知識を持って納得することでしか解決はできない。
私は自分を知らなすぎる。
そして、無知の上に勘違いを重ねて、世界と自分をみている。
それが問題を作り出している。
私は、何かを得ても、得なくても、幸せの根源「ブラフマンब्रह्मन्」である。
幸せと自由、意味である。
そのクリアーな理解から自分と世界をみたら、無知ゆえの勘違いにしがみついていた問題たちが自然と離れて行ってしまう。
違和感や勘違いは、問題が蔓延る場所を失う。
事実に納得した私の中には、問題が巣食うポイントがどこにもないからだ。
光と同時に、闇は同じ場所にいることはできない。
同じ様に、
無知は、真実の知識と理解と同時に存在することは不可能なのだ。
そして、私たちの無知を、鋭い矢のように貫いて、吹き飛ばすのが聖典の事実を語る言葉に含まれた教えである。
それが、

『アハン・ブランマ・アスミअहं ब्रह्म अस्मि
私の真実は世界の源「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である。
『タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि(You are That)
あなたの本質とは「タットतत्(あれ)」=「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」である)

という一文であり、その意味でなのである。
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というわけで、今週はここまで。
聖典はなんども、
「あなたが「ブラフマンब्रह्मन्」だ。
あなたとは、心から望むただ1つの真実のことなのだ。」
と私たちにいう。
・・・それでも、私たちは納得がいかない。
「そんなバカな!
ごくわずかの幸せを間にはさみながら、ほぼ悲劇を生きてるような、そんなヒロインであるあたくしが“幸せと自由”の意味ですって!?
そんなこと信じなくってよ。」
そう言うかもしれない。
でも、それって自分がたった一人で自分に対して出した結論なのでは?
そうやって、不幸や苦悩の主人公を気取るのは勝手だが、それでは生きることがつらいことになってしまう。
そしたら、私たちは実に悲しき生物だなぁ・・
しかし、『ヴェーダ(聖典)』の最終章でそれを力強く“全否定”する。
「あなたが、幸せじゃなくってどーすんだっ?!
生きることは幸せである自分を納得する旅のようなものだ。
そうじゃなきゃつまらんじゃないか?
苦だけなら、生きてることは、呪いになってしまうだろうさ。
違うぞ。
生きていることは、それだけで祝福であり、それだけで喜びなのだよ。
あなたがいる。
それは、もう奇跡なくらい凄いことなのだから」
とでもいうように、私たちに明るい真実を教えているのだ。
さあさあ、この明るい教えの続きはまた来週~
「「ブラフマンब्रह्मन्」じゃない、なんていえる根拠なんてまるでナシっ。」
という聖典の教えをさらにみていこう♪
しかし、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は明るいですなぁ~
こんな教えがあって、ホントよかった、よかった。
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ところでパッションフルーツって、ご存知ですか?
ガムとか、ジュースの味では知っていたけど、私はインドに来るまで知りませんでした。
アシュラムには、パッションフルーツの木があるのです。
で、こんなふうに無造作に実がなる。
こんな風になっているから、風の強い日や雨の日にはポトポトと実がおちてくる。
そんな時この木の下をとおりがかると、
パッションフルーツを自然に収穫できてしまうのです。シメシメ(^0^)
・・・風の強い日に、この木の周りを、うろちょろしている怪しい日本人。
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で、あけると、プチプチした種に、こんなオレンジのとろっとしたジュースがかかっている。
スプーンですくって食べると、うーん、あのガムの味!
・・・己の経験の貧困さにいやけがしますが。。
パッションフルーツの存在はオリジナルを知らずに、ガムから知ったものでね、、ええ、ええ。
そうしても、こういうチープな感動の仕方になってしまいますよ
甘みと鋭い酸っぱみ(クエン酸)が、疲れを吹き飛ばしてくれてくれますな~。
さとて、、これが調子にのって収穫した兄弟たち。
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あ、あんたち・・なんて無邪気なんだ?!

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