Yoga経典、聖典の「悟り・自由」への鉄則

「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」、つまり自分自身の事実とは、
「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」であると知ること。

⇒これが人を究極の自由へ至らしめる術ある、と聖典はいう。
*****
この「ブラフマンब्रह्मन्」について、そして「アートマーआत्म(人、生き物の真実)」についての事実は、
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』という聖典に書かれている。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』とは、
別名『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』という。
2つは、同じ本の同じ個所を指している。
同じ聖典の、同じ部分が「形式と機能」という2つのスタンドポイントからみることで、それぞれに呼び名を変えているのだ。

【形式・場所で表現した場合】
『ヴェーダ(聖典)』という本の一番最後にある部分、という意味。
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』=『ヴェーダ(聖典)』の一番後ろにある章

【機能・内容で表現した場合】
『ヴェーダ(聖典)』の最後の章が、表現しているテーマとその役割、を意味しての呼び名。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』

ウパ=自分に一番近い(問題を) ニ=はっきりと シャッド=壊して、根こそぎとり、人を自由へ導く知識。

『ヴェーダ(聖典)』という聖典には、特定の作者はいない。
一個人の著作物ではない。だからこそ聖典としてのステータスがある。
その内容は、生き方や教養、文化、社会システムのあり方についてあるべき姿を人に教え、規定する。
ヒンドゥー文化圏におけるファウンデーションを構築している知識体系である。
Yogaを生み、育んだ彼の大陸(インド)では、この『ヴェーダ(聖典)』は“絶対”といわれる。
何を持って“絶対”などというのか?
というならば、
それは、『ヴェーダ(聖典)』に対して、人間には反論の可能性がないからである。
否定しようが、肯定しようが、その内容については人間の能力では真偽を確認することが不可能なのだ。
それ故、“絶対”と呼ばれている。
人は『ヴェーダ(聖典)』の記す主要なテーマについて、証明できる能力と機能を持ち合わせていない。
では、一体どの辺のテーマを『ヴェーダ(聖典)』が扱っているのか?
たとえば、人間の生死の仕組みや、
肉体を手放した後の死後の世界の事や、
生まれる前にあった状態のことなどである。
なぜ自分は人と違うこの人生を生きるのか?
なぜ生物には生まれついての違いがあり、違うシナリオがそれぞれに用意されているのか?
これらが『ヴェーダ(聖典)』の語る主要テーマである。
私たちにはそういった類の真意を確認することができない。
生死が繰り返される“輪廻”といわれるサイクルの有無や、その目的や原因について。
『カルマकर्म(行い、業)』といわれるものの実体について。
天国や地獄と言われる場所があるのか、どうなのか?
そこには、天使とか神々とかいわれる存在がいるのかどうか?
どうやったら天国にいって、どうやったら地獄を避けられるのか?
この辺りの、なんとも興味深いけど、憶測すら及ばない範疇のテーマを扱うのが『ヴェーダ(聖典)』だ。
生きている私たちには、この知識の確かさを証明しようがない。
しかも、死んだ者は通常同じ体には戻ってこないため、本当かどうかはだれも立証することができない。
もし、死の世界から戻ってきた、という人がいるのなら、事実彼は死んでなどいないのだ。
戻れる、ということは生きていること。
だから、戻ってきた人は本格的な黄泉への旅路にはついていない。
夢のような微かな世界を一時的に体験しているだけなのだ。
それゆえ、
肉体を手放した後の行くべき世界がどうであるか?は我々には知る由もない。
それが真実かどうかを証明する術がないのだ
かといって、否定するだけの根拠も論理ももっていない。。

この種のことをテーマとして扱う『ヴェーダ(聖典)』は、だれか1人の人間によって書かれたのではなく、
“感性の鋭い複数の者たちによって、聞かれたものである” と、いわれる。
「シュルティश्रुति(聞かれたもの、聖典)」
それが聖典である。
だから、私たちは『ヴェーダ(聖典)』の言う事に関しては、
「はー、なるほど。そうですかー」
と言って、受け入れることしかできない。
証明も確認もできないことに、反論することも、大賛成することもできない。
だから、取るべき態度としては、ただ
「世界のカラクリ」として述べられる事実を受けいれるか、受け入れないか、この2つだけだ。
『ヴェーダ(聖典)』は、どちらのスタンスも押し付けたりしない。
信じろとも、信じるな、ともいわないのだ。
「信じなさい。これが1つの真実、唯一の神なのだからっ!」
という教義の押し付けは、聖典のヴィジョンにはまるでない。
『ヴェーダ(聖典)』は淡々と伝える。
「これはただの見えている世界の後ろに広がる、壮大な事実だ。
私はただ事実を示しているだけだ。
人が受け入れようが、受け入れまいが、関係ない。
信じられようが、信じられまいが、事実には変わりはないから。」
・・・なんというか、とても余裕なのだ。
その『ヴェーダ(聖典)』の最後の章に該当するのが、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』。
聖典のラストパートの主なテーマは、「天国や地獄」という辺りでウロウロしているところから、一歩超えていくための術、が記されている。
生物は皆、己が過去に行った結果を生きているという。
行いの結果は、“経験”を通してのみ消化することができる。
そして、過去に積んだ膨大な『カルマकर्म(行い)』が、生死の輪廻をつくっている。
この輪廻のサイクルに囚われる事を“束縛”=「サムサーラसम्सार(生と死、苦悩の繰り返し)」という。
ここまでが『ヴェーダ(聖典)』の前半に書かれているテーマだ。
その後、ここから脱出する方法を言い始めるのが、最後の章である『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』になる。
「サムサーラसम्सार(生と死、苦悩の繰り返し)」から離れることを「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」というが、なぜそういえるのか?
終わることのない繰り返しに囚われていること、輪廻に限定されていることを人は“苦悩”という。
そこからどうやったらそこから自由になれるのか?
苦悩のメカニズムと束縛からの解放
というテーマを扱うのが『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』である。
「束縛・苦悩・輪廻」
どれも同義語で意味する所は聖典にとっては同じだが、
そこからブレイクスルーする術を『ヴェーダ(聖典)』の最終章は語っている。
結論として、その術は、「真実を知ること」であるという。
その真実が、聖典の中では「ブラフマンब्रह्मन्」という言葉で記されている。
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』はいう。
人が苦から自由になるための唯一の方法は、「真実」を理解することである。
自分自身の真実について知ることが、人を束縛から解放する。
というのだ。
どういうことだろう?
人は苦悩の渦中で嘆く。
「人生は苦悩の連続だ!生きることは苦しみだ。そして俺の人生は絶望だー」
しかし、一体騒いでいるのはだれなのだろう?
「生きることは苦悩だ。そして死ぬことは苦しみだ。」
と決めつけ、眉間にしわをよせて言い放っているのはだれなのだ?
それは、事実なのだろうか?
そうやって、『ヴェーダ(聖典)』のラストパート『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』は、物事を“問題”ととらえ、出来事を“苦悩”にしている私たちの中心に言葉と論理で攻め入ってくる。
人生を苦に、問題にしているのは、もしかしたら、“生きることは苦”といいきっている勘違いしているだれか、かもしれない。
本当のことを確認できずに、勝手に自分の中で問題としてり上げてしまうことが原因になっているのかもしれない。
本当は自分の真実は聖典のいうように、苦から自由かもしれなかったら?
もし、本来の自分を知らなかったら?
聖典は、あらゆる苦悩の原因は、私たちが自分を知らないことにあるのだという。

私たちは皆、世界というドラマに、いろいろな役を演じるプレイヤーとして参加している。
日々私は様々な「役」を演じている。
しかし、本来の私は「役」以前に、プレーヤーである。
そしてさらにいうならゲームに参加するプレーヤーである以前に、最もベーシックな形で、ただそこにいる「存在」である。
聖典は、この「プレーヤーとしての個」、その本性である「存在」の事実を明かす。
私たちの日常の問題は、関わり合う人との関係性や、モノとの間で起きている。
だれもが、プレーヤーとして「役割」をもちながら、世界というゲームに参加している。
そしてゲームの中で、自分を悩ませる問題はいつも役と役の間の軋轢でおこっている。
しかし、役の前にベーシックな「プレイヤー」である自分は、役の問題からは本来切り離さ
れている。
さらに、プレイヤーの前に、「存在」である自分は、役とは関係なくそこに存在している。
そのレヴェルの自分自身には、存在を揺らがせるような“問題”や“苦悩”などはない。
苦脳や問題の原因である“関係性”に囚われることもなく、シンプルに「存在」している私のどこに、
問題を作りだすプレッシャーやひずみ、誤解、比較、などがある?
多くの人が、本来の自分であることよりも、”役をいかにうまく演じるか?ということに夢中になっている。
普通ゲームの中の世界において、最重要課題は
“いかに役をうまくこなしていけるか?”であって、
“演じている者は誰なのか?”ではない。
そうして、だれもが自分が、何かを“演じている者”であることを忘れている。
そして、世界ゲームの中で、皆それぞれの「役」の上での問題にはまる。
そうした考え方や物事のとらえ方に没頭して、本来の自分を見失う。
私は誰なのか?
本質的な私とは何者なのか?
世界というゲームから自由になるには、そこまで自分を掘り下げてみる必要がある。
ゲームを止めること、ゲームから脱け出すことは完全な「自由」を意味しない。
なぜなら逃げるようにゲームからさっても、また次の別のゲームに囚われる可能性は残るからだ。
自由になるには、1つの方法がある。
それは、
「自分は、役を担ってゲームに参加している。
役はゲームの一部となり、ゲームを動かしている。
しかし、私の本質は“役”ではなく、“役”のベースとして在る、演じているベースになる存在である。
ゲームの中にいながら、ゲームに捕えられることのない“存在”が私である。」
この事実を知ることが私たちをゲームから解放する。
ゲームの中にいながら、本来ゲームから自由な“存在”が自分の事実と知ることが、ゲームを楽しむ知恵として必要なのだ。

様々な「役」を演じる自分と、「役」の上の問題を理解すること。
役は、本質的な自分とは違う。
この事実の理解が、ゲームにおける役に起こる問題と、本来の自分との間に距離をつくる。
そのことで、ある種の余裕、スペースが自分の中に生まれる。
自分は「役」ではない。
もちろん他の人も本質的には「役」ではない。
「役」以前に、プレイヤーとしてある「個」、さらにその個人の「存在」そのものが、人の本当の姿である。
聖典はさらにいう。
ゲームの世界は、あくまでゲームの世界だ。そこには“実存、実体”というものはない。
すでにある「存在」のうえで、様々な出来事が展開しているにすぎない。
その世界の中で自分は、いろいろな「役」を一時的に担っている。
「役」には実体がない。
ということは、本質的な自分とは、「役」を演じている者であり、役のベースである。
それは、まるでゲーム世界のように動き、変わりゆくものの背後で、いつも変わることなくあり続ける実体である。
それが「個」の本性であり、事実だというのだ。
自分は、本当は何者なのか?
私たちは本質的な自分を知ることもなければ、確認もしていないかもしれない。
そうして、目に映る出来事や、状況に巻き込まれているだけの自分をみて「苦」だなんて、
結論づけているのかもしれない。
こうやって聖典は私たちの根幹にある“あたりまえ”と思っていることに、まず揺さぶりをかける。
「人生全て苦悩なり」
そんなことをいっている中心人物はだれか?
そして、その者は本当に苦であるのか、どうなのか?
これこそ見極めるべきだ、という。
もしかしたら、苦の渦中にいる人は、自分自身の事実を知らないで、ただ表面上に現れた状況を決めつけている
だけなのかもしれない。
そうやって、“自分=苦”だと信じ込んでいるのだとしたら?
なぜ、そんなことがいえるかというと、
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の言葉は、
真実とは、人が個人的な経験に基づいてする推測からおよそかけ離れているものだ、
ということを語るからだ。
「真実」とは、リアルっぽくみえることの、正反対のところにあったりする。
このヴィジョンを聖典は何度も語る。
聖典のクライマックス、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は、はっきりという。
「人の本質とは、苦ではない。
人の真実は、「ブラフマンब्रह्मन्」である。」

そして、この1つの供述を土台にして、「ブラフマンब्रह्मन्」についての説明をする。
「ブラフマンब्रह्मन्」とは、“実存、実体”のことでもあるが、さらに包括的な意味を含んでいる。
「絶対的な存在であり、限りのない知の源であり、終わることなく満ちるもの」
という3つのポイントから意味を指し示されている言葉が「ブラフマンब्रह्मन्」なのだ。
① 絶対的な存在であり、
② 限りのない知の源であり
③ 終わることなく満ちるもの

3つの言葉によって、明かされているのが「ブラフマンब्रह्मन्」という1つの言葉の意味。
それら3つをいいかえると、かの有名なフレーズ、
「サット・チット・アーナンダसत् चित् आनन्द(存在、知、限りなく満ちるもの)」
となる。
まず、はっきりさせなければならないのが、
「ブラフマンब्रह्मन्」は、物ではない、ということだ。
人が見たり、聞いたり、触ったりできるような何か、ではない。
獲得できる物でも、代償としてもらえるご褒美でも、お金や労力と引き換えに得ることができるような対象物でもない。
「ブラフマンब्रह्मन्」は、物ではない。
それは、「意味」なのだ。
どんな質にも限定されず、何によっても縛られないということの意味。
自由の意味。解放の意味。
“自由”という言葉の意味を、強いて一言サンスクリット語で表すとしたら、それが「ブラフマンब्रह्मन्」という音になる。
「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」という言葉を規定して、さらに聖典は結論をいう。
“「ブラフマンब्रह्मन्」とは限りなく在り続ける。
それは、“あなた”の事実である。“
これが、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』のヴィジョンを一文で表した、

「タット・トヴァン・アシतत् त्वन् असि」
You are the Whole,あなたの本質は、「あれ」=「ブラフマンब्रह्मन्」である。

というセンテンスの意味だ。
“あなた”は、「ブラフマンब्रह्मन्」である。
と、聖典にいわれている“私”の事実・
私とは、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」なのだ。

・・
・・・・あれ?
今だれか
「ホントォ?」
とか呟きました?

実は、そんな風に呟やく、あなたの本来の姿が「ブラフマンब्रह्मन्」なのだ、と聖典はいう。
疑問をもてること。
ホント?という言葉を放てるということ。
ある考えを持ちつづけ、思考し、認識することができること。
このすべては「ブラフマンब्रह्मन्」が源にあることによって、はじめて可能になると聖典は定義する。
「ここまでいっても、あんた、まさか自分が「ブラフマンब्रह्मन्」じゃないとでも思っているのか?
 本当に?」
まるでそんな風に聖典は、言っているように聞こえる。
そう改めて問われたら、私たちはオタオタするしかないかもしれない。
そして、苦し紛れにこんなことを口走るかもしれない。
「もしかしたら、聖典がいうように、自分が「ブラフマンब्रह्मन्」、ということも
なくはないかなー、と思うような気がしないでもないけど。。。
でも自分って、そんな大それたものではないような感じなんですよね~
“絶対的な存在、知の源、限りないもの”だなんて、
ちょっとスケールが大きすぎてピンとこないんですよ。。。」
そんな風に思ってしまうのが本心だ。
“自分が絶対なるもの、限りないもの、知の源だ”
なんて、いくら知の権威である聖典の言葉だからといっても、迂闊にスイスイ飲み込めない。
鵜呑みにするには、ちょっとスケールが大きすぎる。
“あんたが「ブラフマンब्रह्मन्」なんだ!”
・・・聖典はそういうけれど。
 「でも、そんなこと、急にいわれても・・・ 」
ヴィジョンが壮大すぎて、というか唐突すぎて、どうしていいかわからない。
そして、
やっぱり「ホントかなぁ?」と思ってしまう
すると、さらに、たたみ掛けるように聖典は続けるだろう。
「だったら逆に聞くが、
あなたが、“「ブラフマンब्रह्मन्」じゃない。といえるベースになる根拠はあるのか?
そう否定するあなたの、思考や機能はどこにある?
あなたの体や口を動かして何かをいわせ、
考えを働かせ、疑問を持たせ、結論をだしているその知覚のベースは何だと思っている?
だれがそこにいるのか?
そこには何かが絶対的にあるだろう?
少なくとも、思考のベースとなる「知」はあるはずだ。
それからあなたという「存在」も。
そのどちらも、あなたの体や頭に満ちているから、あなたは何かを思って結論づけられるのじゃないか?
とすると、あなたは誰だ? 何なのだ?」
「・・・うう・・」
・・うーん、こ、言葉につまる。
たじろぐ私たちに、さらに聖典はいう。
「“あなた”がいる、これは確かなことだろう?」
「へ?」
「自分がいる、それは誰に確かめなくても明らかだろ?
それとも、いるかどうか?お母さんに確かめないと解らんのか?」
“自分がいる、何かがある” 
 その「存在」は、誰にも否定できない。
それは絶対だ。
では、その“いる”自分とは、だれのことだと思うのか?
“あなた”とは、何を示しているのだと思う?」
「・・・」
こんふうに、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』は徹底的に、
“自分をなんとなく曖昧に認識している者”
にぐいぐい迫ってくるのだ。
そして、私たちが
「おやおや?自分とは、ひょっとしたら聖典がいうように、「ブラフマンब्रह्मन्」なのじゃなかろうか??」
と思ってしまう所まで、キレある論理で攻め込たてる。
反論の余地もなく、聖典のビジョンに押されまくったボンヤリな私は、気がつくとその言葉にうなずいていることになる。
聖典はこう見せようとしている。
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の意味する真実、「ブラフマンब्रह्मन्」とは、
私たち自身の真実を指し示している。
私たちが知ろうと知るまいと、「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」とは、私たち自身の事実である。


私たちは疑いようもなく、ここに、今、存在している。
それはだれがなんといようと絶対的に「存在」している。
誰かに確かめてもらう必要もない。
“自分がここにいる。今、いる。”
このことはどんな言葉でも否定できない。
その事実から、聖典は私たちを『サットसत्(存在、真実)』であるという。
私たちは、“今、ここに、こうして生きる。”
ということは、はっきりわかる。
“知る、わかる”という認識が、私たちの中で起こっている。
なぜなら、そこには「知・認識の源」となるベースがあるからである。
何もないところに、
「わかった!」
は、起こりえない。
だれにも否定できない絶対的な「存在」がある。
そして、その“ある”ということが、私によって解られている。
この“解る”の源が、「知・認識の源」=「チットचित्(知の源)」である。
私たちに認識を与える源である。
さらに、「サットसत्(存在・真実)」であり、
それを知っている「チットचित्(知の源)」である私は
この体や考えに限りなく満ちている。
私の中に存在がないところも、
「知・認識の源」がないところも、私たちにはない。
それを「アーナンダआनन्द(満ちていること、限りがないこと)」という。
実は、わたしたちはこの自分が、“限りのない存在、満ちていること” であることを知っている。
たとえば、
とてつもない“幸せ”を体験しているとき、
私たちは自分の本質である“限りのなさ”をみている。
だから“幸せ”を感じられる。
自分と、何かが一体となるとき、私たちは“喜び”を感じる。
誰かと心から理解し合った時、同じことを考えていると解った時というのは、自分と外の世界が一体になる瞬間だ。
物事を経験する主体(わたし)と、物事の経験である対象(ここでは、“他人の考え”“)が一体になる時がある。
その瞬間、自分と他を隔てているものや離しているものはない。
自分から離れたものがない時、私たちに無敵だ。そこには、恐れがない。
あるのは、境界が取り除かれた限りのない事実。
何かを喜ぶとき、楽しい時、“我を忘れ“夢中になっているとき、大笑いする瞬間、感動して心が震えるような経験をしている時、わたしたちは”自分と外の世界“という2元に分かれた見方の間から、ただ1つの無限の広がり見ている。
何も別れてなどいない、完ぺきな1元、たった1つの確かなことを見ているのだ。
聖典は、この“無限の広がりに満ちている”こととが、自分自身の本来の姿”
であるというのだ。
その本質的な自分はとても心地がいい。
だから、私たちはいつも無敵の、無限の、心地よさを求めている。
なぜなら、それが、私たちの事実だからだ。
真実の自分でいる、それを実感できるような瞬間だからこそ、心地よさを本能的に求める。
私たちの真実であるから、いつまでもそこに在り続けたいと思うのだ。
幸せや喜びの経験は、自分自身の本来の姿である
「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)』でいられる瞬間だ。
それが「幸せ」ということの意味である。
私たちは「幸せ」という物を求めているのではない。
そんなものはこの世には存在しない。
私の存在こそが、「幸せ」の意味なのだ。
だから、この自分自身の真実に触れる瞬間を私たちは何度も何度も得ようとして、探している。
これこそが、まさに、
“探しているものは、実はすべてここにある”という青い鳥的結末。
我々が求める「アーナンダआनन्द(満ちていること、幸福の意味)』」とは、
「ブラフマン(存在、知・認識の源、遍く広がるもの)」のことである。
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永遠のハピネスの正体、
それが私たちの事実、
それこそが「ブラフマンब्रह्मन्」の意味。
ということを聖典はいうのですね。そしてYogaはそれを実感するための道であり、テクニックでもある。
しかし、世には
「いやいや、あまったれんな。人生は苦、ク、苦、くっ!なのだぜよ。」
と主張する人達もいる。
そんな人たちは何千年も前からインドにいた。
さあ彼らの主張にどう聖典は切ってみせるのか?
私たちが苦ではなく、「幸せ」の意味だと揺るがずにいられるその根拠とは?
気になる続きはまた来週~
おたのしみに。
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ところで、帰国したての8月22日は『バガヴァッドギーター』で主人公アルジュナに
Yogaの教えと「モークシャमोक्ष(悟り・自由)」とは何か?瞑想とは何か?を教える師匠クリシュナのお誕生日でした。
いつもはクラスが行われるレクチャーホールが、突然祭壇となった日。
ちなみに、クリシュナの飾りつけをしている半裸の男は、司祭さんです。
南インドの男性の正装は、実は「半裸」。
お寺に入る時や、正式な行事のときは、みんな一斉にシャツを脱ぎます。。。
ここぞ!という時に服を脱ぐ、という習慣。
不思議なもんです。

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