<『カルマの法則』 運命は変えられる!   3つのカルマについて>
自分がした行いの結果として、実った果実を収穫し、味わうのは、他でもない行いをした張本人、自分だけだ。
だから、私たちにはそれぞれ別の課題があり、やらなければならないことがある。
顔や体が違うように、やってきた行いが違うからだ。
経典に言わせると、
私たちは皆、この体を手に入れるまで膨大な生き物として生を全うしている。
そして数えきれない死を迎えてきた。
時には人間として、時には空を飛ぶものとして、海に生きるものとして、地を這うモノとして生まれた。
地球に限らず、他の惑星の生命体として、時に物質より微かな世界の天界に生きるものとして、様々な体を手にして、相応の営みをし、行いをしてきたという。
その時々にしてきた行いは、個人の名の元に積み上げられている。
まるで銀行預金のように、“個人”のあるところ、“私”としている所に、今までの行いのすべてが、結果をもたらす前の状態で積まれているという。
行い手に刈り取られる前の状態で、過去にした『カルマकर्म(行い)』の蓄積を

『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』

という。
その量は膨大であり、尽きることがないといわれる。
スピリチュアル界で有名な、あの“アカシック・レコード”とはこの『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』のことだ。
ちなみに、“アカシック”は、
サンスクリット語の空間を現す『アーカーシャआकाश(空、スぺース)』を英語風の形容詞にするため
接尾語“シック”をつけられた造語と思われる。
私たちの過去にしたすべての『カルマकर्म(行い)』は、この空間に“個人”としている者の名義ですべて記録され、積み上げられ、保存されている。
そして貯金のような、『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』から、
ある一部、刈り取られんばかりに熟れ、旬を迎えた『プンニャपुण्य्(徳)』と『パーパपाप(不徳)』の組み合わせが、
今の私たちの体や状況として実っている。
まさに今、私たちは、一瞬一瞬、実った果実を、過去に積んだ行い結果として刈り取っている。
現在私たちがこの人生で、刈り取っている『カルマकर्म(行い)』の結果を

『プラーラブダ・カルマप्रारब्धकर्म(現在消化中の結果、今生で刈り取られる行いの結果)』

という。
この『プラーラブダ・カルマप्रारब्धकर्म(今生で消化される行いの結果)』によって、
私たちは現在、体を持って、様々な状況や経験を味わっている。
摘み取られ、消化されるために、『カルマकर्म(行い)』の結果が、さまざまな形をとって私たちの前に現れている。
痛みや苦しみは、『パーパपाप(不徳)』を消化していること。
喜びやラッキーは、『プンニャपुण्य्(徳)』の実りを味わっていること。
どの人も、この2種類の経験を味わっている。
だから、悲しいことや困難がおこっても、
「おお、また今一つ『パーパपाप(不徳)』が消化されたな! ハハハッ」
といって、受け止めてしまう。
そんな風に明るく受け止め、起こったことから出来事から学ぶことができれば、
私たちは次の幸運をつくることができる。
『パーパपाप(不徳)』は次の『プンニャपुण्य्(徳)』、次の幸運のきっかけとなる。
そして、いつでも私たちは法則と共にあることを知ることが、
試練や不測の出来事への“緩衝材、ショックアブソーバー”となる。
さらに、私たちは現在、幸運なことに人間としての体をもっている。
なぜ幸運かというと、この地球では人間の体にのみ“自由意志”がセットされているからだ。
“自由に選択できる意志がある”
ということは、新しい『カルマकर्म(行い)』をし、結果を作りだせるということ。
残念ながら、動物や昆虫や魚、人間以外の生物には“自由意志”がセットされていない。
彼らは自然界のものとして、自然の法と秩序のプログラムの中で生きている。
だから、洋服を選んだり、突然旅に出たり、しっぽやツノの形を自己流にアレンジしたりすることもなければ、生き方を変えたりもすることがない。
当然、Yogaの道を歩む可能性もない。
意志がないから、彼らは選べない。
『クリヤーक्रिया(動き)』はあるけれど、意志で選択する『カルマकर्म(行い)』がないのだ。
しかし、
その特権として、
動物には悩みがない。
動物はけして“悩まない。”
正確にいえば
“悩むことができない”。
自由意志がないから、選択がない。
選べないということは、迷いがない。
“意志”をもつキャパシティーがないため、人間のように高い自己意識もなく、葛藤もない。
他人の目に映る自分を気にしたり、
肉体以外に、感性や考えを成長させたいとも望まないし、
世界の出来事を“成功・失敗”と判断することもないから、
落ち込むこともなければ、
有頂天になることもない。
多少の感情と、生きるための仲間と敵の区別、繁殖のための他の種と区別できる程度の自己意識しかセットされていないのだ。
自然界のモノとして、自然の理としてベースにある秩序と法のままに生きている。
だから動物の生は、過去に積んだ『カルマकर्म(行い)』の結果を消化するだけで、
新しく『カルマकर्म(行い)』の結果を生みだすことがない。
しかし、私たち人間は違う。
自由意志をもって、新しい『カルマकर्म(行い)』をする。
その結果を現在進行形で生み出している。
結果を消化しながら、新しい結果を作り続けている。
一部の結果は、今回の生で消化され、一部は保存され『サンチタカルマसञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)』に積まれる。
次の“人生(か、なにか別の生物)”の材料として、持ち越される現在作りつつあるカルマのことを、
『アーガーミ・カルマआगामि (現在生みだされ、未来に使われる行いの結果)』
という。
“自由意志”をもち、未来への『カルマकर्म(行い)』の結果をつくりだせるから、人間は特別だといわれる。
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注射をうってくれた、看護婦さんから注射器をとりあげての記念撮影。
インドでも、注射は使い捨てです(あたりまえですね。。)
こちらの病院の看護婦さんは皆白のサリーで、かわいらしい。
それなのに、あんな痛い注射を打つとは!けしからんのです。
でも、ありがとう~
また近々お世話になることでしょう

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