最近わたしは、すこぶる調子がいい。
こんなことは、とてもめずらしい。
人生始まって以来といっても、大袈裟ではないかもしれない。
相変わらずの不便なインド暮らしで、カレーやインド食全般が全く消化できず、体は低空飛行をつづけているのだが、心は小春日和のようにホコホコと落ち着いている。
日常関わりあわざるをえないインド人の、無遠慮なモノ言いや不遜な態度に細かくキレたりもしているが、これはまあ、挨拶みたいなものであるので、別として。
それでも大きく見れば、感情面での問題が非常に少なくなっている。
その理由は、やっと最近になって
『受け入れる』
ということの意味と大事さがわかるようになってきたからだ。
Yogaを初めて早10年。
気がつくのか遅すぎる?
そう、遅すぎた。
今思えば最初からYogaの先生は言っていたような気がする。
「受け入れることが、大事です」
とか何とか。
多分優秀なYoga人はこの辺のことは、軽く乗り越えていっていたのだろう。
でも私はだめだった。
なんとなく、スピリチュアルな世界やYoga的な世界に蔓延している、
「許しましょう、受け入れましょう、そして1つになりましょう。」
とかいうフレーズや考えが大嫌いだった。
アレルギーがあるといっても、いい。
「な~にを、偽善的なことを。
大げさな言葉は気恥かしいでありますなぁ~」
そんなバカげた態度でもであった。
許す?
許すって何を? 
自分が何を許せるっていうのだろう?
随分上から目線の態度と言い方だけど、私の方こそ、いつも周りに許されてきたのではないか?
そう思っていた。
「受け入れる」も、
「1つになろう」も、
なんか部活や運命共同体の宗教みたいで、ピンとこなかった。
でも、最近になって急激に「受け入れる」ということの意味が実感的できてきている。
「許そう、ひとつになろう」に関しては、まだまだ不明な点もあるのだが。。
これは今後の成長への課題ということで、楽しみにとっておくとしよう。
さて。
本題の
「受け入れる」
ということ。
これには、2つの局面があるようにみえる。
自分を受け入れること、
そして外の世界を受け入れること。
どちらにしても、世界に囲まれながら存続している自分の感情や状態に、
抵抗しない、ということだ。
自分を受け入れるということは、自分の考えや思い、体、性格、その生き方や在り方について納得がいっている、ということ。
少なくとも逆らったり、何か自分以外の別の者になろうしたり、あがいたりしないということ。
これはわかる。
世界の方はどうだろう?
世界を受け入れる、受け入れていないとは?
これもやっぱり、抵抗しないということだろう。
毎日私たちはいろいろな物や人に接しているけれど、すべての外の世界の情報が最終的に行きつく先は常に自分の中。
自分の中だけで、情報は加工される。
世界の情報が、様々な記憶や元来の性質、性格といった要素と絡み合い、物事に対する判断となり、結論となる。
“好き・嫌い”からはじまって、“良い・悪い”、“アウト・セーフ”、
敬いから侮蔑まで、私たちは外の世界を内なる世界からジャッジする。
もしかしたら、私たちは、あるがままの世界をみていないかもしれない。
いつも自分の中でだけ、自分の中にある基準だけで外の世界をみている。
その基準と結論が、自分にとっての世界になっている。
だから、ただ単に近くにいる人達が、
“大嫌いな人、憎むべき人、大変愛おしい人”と色づけされてしまったりもする。
自分というフィルターを通ったら、
世界のただの出来事が、“大問題”となってしまうこともある。
一見全く違う2つの次元の物事を受け入れているか・受け入れていないか?
そんな風にみえているけれど、
問題の発端は同じ所を基軸にしている。
その問題の起こる場所、物の見方が決まる所を私たちは“心”といっている。
ちなみに、心はYogaの言葉サンスクリット語では、『アンタッカラナअन्त:करनम(内なる道具、心)』という。
自分に一番近い場所で、情報を集め、判断し、結論付ける、まさに内なる道具だ。
だから、こうもいえる。
“問題”は、自分の物の見方にある。
“心の在り方”にある。
と。
*日本の地震と津波被害のために、
ここ南インドの方々が集まり祈りのイベントをしてくれました。
早く復興しますように。
傷ついた方々の傷が早く癒えるように。
と、願いを込めて1人1つずつ蝋燭に火を灯して祈ってくれていました。
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ありがとう。

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