なんだ、『受け入れる』って、
こんな簡単なことだったのですか。
だったら最初からいってくれればよかったじゃないですかっ?!
と,
先生やYogaを教える経典に詰めよりたくなる。
けれど、彼らは最初からいってくれていたのだった。
自分が、聞いていなかったのだ。
「我々は最初から同じことをいっていたよ。
キミの問題なんて、本当は何の問題でもない、ということも。
怒りも、恐れも、悲しみも、抵抗なく、反応なく受け入れてしまえばいいということも。
なぜなら、それらすべての感情の起こりも、プロセスも、1つの秩序と法則の元に全く当たり前、自然の摂理としておこっているから。
抵抗して、問題にする必要なんかない。
そして、その法則と秩序にいつもキミ自身がいる。
キミ自身の中に秩序と法が溢れている。
キミこそが、この世界の秩序と法に他ならないということを。
さらに、真実の視点からみれば、その法則と秩序そのすべての根源には、いつもキミがいるということも。」
きっとYogaの最終的な経典『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』を理解する、というプロセスも同じなのだろう。
大事なこと、本当の事は自分にある。

『タットヴァマシ तत् त्वम् असि(you are that、キミこそが真実)』

この言葉が経典の最終的なメッセージなのだが、
経典はこれを何度も言う。
聞いている人が解るまで、何度でも。
でも、私たちは聞こえていても、聞いていない。
聞いているのに、解っていない。
それだけなのだ。
問題は自分の中にある。
そして解決も自分の中だけにある。
解決する方法も、その教えも、いつも自分の周りに在る。
それに気がつきさえすればいい。
聞く気になって、耳をかたむけ、理解しようとすればいい。
大事なことは、素直に心を開いていくこと。
ありのままをありのままに映しだせる、
曇りのない鏡のような、心の在りかの大事さにある日気がついて、
そのために努力していればいい。
そしていつの日か、この経典の教えが、私たちに聞こえる時がくる。
私たちを根本から自由にするという教えが、
きっと聞こえる時がくる。
それがまさに、自分の事、自分という者の意味として、実感する時がくるだろう。
その時、私たちは完全に自由だ。
Yogaの練習、Asanaも呼吸も瞑想も、すべてがこの自由へ向かっている。
だから大丈夫。
安心して歩いていけばいい。
途中いろいろな問題に囚われそうになっても、1つづつ受け止めて、そして受け流し、
前へ前へ進んでいこう。
もう恐れに、恐れることがないように。
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*先日南インドのお正月がありました。ここは月のカレンダーをつかっているので、
新年の意味も日付もグレゴリオ暦とはだいぶ違うのです。
というわけで、いつものとおりお寺で『プージャ(儀式)』
『ヴェーダ(聖典)』の儀式がとりおこなわれました。
それにしても、儀式をする人はみんなガタイがいいのぅ~
いい食べ物を食していらっしゃることでしょう。

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