迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。  Yoga的瞑想法②  

迷い,走る「心」を追い越せ!迷走から瞑想へ。  Yoga的瞑想法②  
我々にとって、心はあえて止めなければいけない機能だとしたら、
心はそもそも“動き回る機能つき”である必要なんて最初からなかったのでは?
「この世界には、必要じゃないものなんて何一つ現れていない。」
これも経典のはっきりした教えの1つです。
だとしたら、「動き回る心」は必要があるからこそ、そうなっているのではないのか?
「心の止滅」派の方々には、この点でも矛盾があります。
それに止めるだけだったら、息を止めるだけでも、心と考えの動きは止まります。
ためしに今、1,2,3で10秒間息を止めてみましょう。


3 ハイ!
・・・10秒・・・
考えも、心の動きも止まりましたね。
完全なる「心の止滅」が目的なら、息を止めるだけで達成できる。
あんまり止めると危険ではありますが。
でも、そんなことを私たちは目指しているのか?
Yogaをして、瞑想をして目指しているものは、欲しいものは何か?
心を止めることじゃなかったはず。
それより確かに求めていたことは、心がいつも、葛藤なく落ち着き、平和に健康的に働いて気持ちよく生きていくこと。
だれといても、いつも、外のものに揺さぶられることなく、自分であることに誇りをもって満ち足りていられること。
その暁に、この世に生を受けた目的が明確になり、達成されるなら、もういうことなし。
これがYogaや瞑想を志した最初の理由だったのでは?
「心」は動き続けるのです。
物事に向かって猛スピードで走るのです。
それが私たちの「心」なのです。
いろいろな物事に引きつけられて、考えから考えへと移ろい、とめどなく流れる。
「心」が悪いのではない。
私たちの「心」の性質とは元々そういうものだ。
様々な対象に惹きつけられ、残像を映しだし、その中を動き回る。
だからこそ、私たちはいろいろな物事について考えることができる。
古くからある伝統の美しさを知りながら、新しいものを革新的にとりいれたり、変化をおこしたり、何かに気がつい
たり。
大きなテーマについて考えを巡らせながらも、毎瞬小さな事項について迷いながらも判断し、決断し、何かを実行
することができる。成し遂げることができる。
人々と、世界と関わりあうことができる。
そして、最終的にYoga的『悟り(モクシャ)』が起こるとすれば、他のどの場所でもなく、この私の「心」の中だけ。
Yogaで目指す『モクシャ(悟り・自由)』は動く・流れるという心の機能があるからこそ可能だと、確信をもってYoga
の経典はそういいきるのです。
『バガヴァッドギーター』の中でもこんな言葉があります。
「心は、自分が主として扱っていければ、最高の友である。
しかし、もし自分が心に振り回されているとすれば、最大の敵にもなる。」
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心を最高の友として一生仲良くしていけますように!

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